<記述日:2020/11/11>
ここでは、うたちゃんのパパの半生記を記します。
産まれるのは、実母の実家の近くの産院
熊谷市の産院で産まれました。兄弟の中では一番体重があったようです。うたちゃんが産まれた時、私は母乳を飲んだのか?実母に質問しましたが、『でないから飲んでない』そうです。少し熊谷の実家で過ごしたあと、小田原に行きました。
小田原時代の記憶の断片
幼少期記憶が無いと多くの人は言うけれど、私にはしっかり記憶があります。
・やたらとクルマで連れまわされたこと。
・官舎(社宅)のようす。平家建て今で言う1LDK、玄関入って寝室左に食事場振り返って炊事場、寝室奥に廊下があり中庭を囲むように便所風呂場。
・パチンコ屋で養父にタバコの火を当てられやけどしたこと。
・官舎の周辺の遊び場。砂場や埋め込んだタイヤ、集会場があった。集会場に石を投げてガラスを割った。
・官舎には老人も多く住んでいて、軒先で将棋や囲碁に興じていた。(後年引越後、官舎自治会の囲碁セットが自宅で発見された。)
・国府津の海岸で地引網。当時西湘バイパスが無く海岸が広かった。
・自治会でのスイカ割り。スイカを食べて瓶詰めオレンジジュースを飲んだ。
自転車事故
・養父が駅売店に買い物している時に自転車が転倒、痛かった。
・養母が交差点で一時停止せず、他の自転車と衝突したこと。私は飛び降りて怪我無し、養母はずっと痛いと言っていた。
自動車
・カローラの小さいのに乗っていた。
・養父母と養祖父母で、伊豆の戸田(へた)にドライブしたが、この頃の旅行から予約なんかしていなくて、大正時代に建てた官舎よりも明らかにオンボロの民宿に泊まろうとしたので、大泣きして日帰りにさせた。
・当時の千葉の実家には、庭を潰した未登記車庫があった。
・夜間にみかんを買い出しに行ったのを覚えている。
・事故の時運転が上手いから死ななかったとか養父が言っていた。(事故起こすな)
おもちゃなど
・プラレールは、151系電車。なぜ人気の新幹線でないのか今でも疑問。
・ダイカスケールは、581系昼行特急色、111系湘南色。駅売店でおねだり。この頃から、鉄道関係しか買ってもらえなかったようだ。
・障子は破るおもちゃだ。
・絵本は蒸気機関車。乗客目線のモノではなく、扇型機関庫とか石炭積込場とか、明らかに機関士目線の構成だった。
・足踏み式乗用カー。
・テレビは白黒で、ゴレンジャー面白くなかった。仮面ライダーが好き。
・仮面ライダーの主題歌のレコードがあった。同時収録が帰ってきたウルトマンだったが、最初のウルトマンをしらないので、どこから帰ってきたか知らなかった。
・星影のワルツのレコードがあった。
・職場から余った時刻表を持ち込んでおり、時刻表を見た記憶、新幹線マークがあった。
保育園
・専業主婦の養母は、明らかに子育てから逃れるため、パートに出て保育園に入れられた。その仕事(宅配飲料、化粧品営業)も長く続かず、 小田原競輪場の小田原市正規の臨時職員となってからは定年までやった。(退職金目当て)競輪場は日曜日の仕事があるため、たびたび千葉の実家に預けられた。
・養父は競輪をやっていて、私を連れて養母の売り場にやってきて車券を買っていた。おせんべいをもらったのでよく覚えている。
お出かけ
・小田原城址公園によく行った。長寿の象が暮らしておりよく見ていた。後年、幼稚園で動物は象しか知らず象の絵ばかりだった。ミニ汽車に乗車。帰りは守谷のパンで甘食だが、当時から人気で売り切れが多かった。バスで行く。
鉄道の記憶
・東海道線は80系電車や111系電車、153系電車。総武線は63系電車や101系電車。新幹線に乗った記憶がある。
・養母が忘れたと思っていた荷物を私が下車時に持っていて賢いと驚いていた。
・国府津駅構内にまだ扇型機関庫と保存SLがあった。(まもなく東海道貨物線建設で撤去、余った土地は官舎の建て替え用地、今はそれも無し)
写真はあるけど記憶無し
・保線区で乗った黄色のモーターカー。
・知り合い家族みいちゃんと行った山梨のぶどう園。
そもそも写真すら少ない
・結婚して思い知ったが、うたちゃんのママは、段ボールいっぱいの思い出があるのに、私はアルバム2冊に幼稚園卒園式でもらったその後追加されないアルバムのみ。
・養子告白8歳以後、 アルバムがほとんど更新されていない。
祖母からのちに聞いたこと
・小柳ルミ子の私の城下町と瀬戸の花嫁を歌っていたと聞いたが、覚えていなし歌えない。