うたちゃん日記

うたちゃんの日記を中心にお散歩していますコメントはお気軽に♪

にほんブログ村 子育てブログ 2015年4月〜16年3月生まれの子へ にほんブログ村 写真ブログ 子供写真へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 千葉(市)情報へ 鉄道写真ランキング

高速道路と我田引水、政治家と建設省(その1)

【日本の伝統芸・我田引水は繰り返す】高速道路建設早期の政治的混乱と現在に至るインフラストック不足(その1)

<日付:2021/7/20>

日本の明治文明開化以後の土木インフラの特徴は、バラマキである。需要予測や経済性、土木技術の完成度を考えること無く、『根拠無き理想論』は、ある種のムーブメントをおこし『政治運動』となり、実務者の進言すら聞き入れなくなる。

 

www.utachan.com 

www.utachan.com 

図1

f:id:utachan0831:20210720181958j:plain

 

図1は、1940年(昭和15年)から2021年(令和3年)まで、首都圏中京圏(東名、中央)、中京圏関西圏(名神、東名阪、名阪国道、西名阪)、関西圏中国地方(山陽、中国、山陰)の各高速道路の工事期間を色塗りしたものである。

朱色は工事着手(準備期間のあるものも含む)から路線全通まで、黄色は路線全通(暫定2車線)から完成4車線までの期間としている。

本来の高速道路は完成4車線以上のものだ。暫定2車線まで『高速道路』として運用するのはどうかと思う。

 

www.utachan.com

 

 

戦時中の高速道路計画

1940年(昭和15年)に東京下関の調査から始まり、1943年(昭和18年)に大東亜共栄圏全国自動車国道計画(自動車国道構想)としてまとめられすぐに中止となったに過ぎず、路線網は重要港湾を連絡する軍事色の強い実用的なもの。ドイツのアウトバーンに習ったとされるが、ドイツが標準幅員構成を24mとしたのに、日本は20mとした。明治期の鉄道路線網建設期に、広軌狭軌かでもめてしまった件の再来のような出来事だ。(戦後の名神では24m、名阪国道では21、22m)同じ時期の弾丸列車計画が広軌のアジア大陸規格に決まったのとは異なるプロセスかも知れない。

 

戦後はいわゆる道路族を作り出すことから始まる

やたらと文献に出てくる『田中精一』しかし文献によって清一と記され、国会関係の資料では清一で出てくるので清一が正しいのだろう。高速道路企画立案の先駆者とされ、プランは国土縦貫高速自動車道構想として政府とGHQに提出されたとする。

このプランの要点は次の通り

・日本列島の山岳地帯に背骨のような『縦貫道』を建設

・縦貫道から海岸へ向けて肋骨のような『横断道』を建設

崇高な理想の上に練り上げられたとされるプランは『高速道路』の概念さえ無く『プランのデメリットや実現可能性』の情報さえ無かった時代、国会議員の多くの支持を受け1953年(昭和28年)『国土建設推進連盟』が結成される。

1953年(昭和28年)の時点で、沿線都県自治体毎(東京~滋賀)の調査報告書 が完成。航空測量により1万分の1地形図を作成済みであった

この時点で、東海道案、中央道案の土木工事としての実現可能性については明確になっているものと思われる

国土開発中央自動車道事業法案の提出、1953年(昭和28年)

・中央道(初期の静岡県井川町を通るルート)の理論的支えとなった

・参考文献の著者も何故かほめており、現在なら可能なルートと書いてある

 

建設省からすぐさま対案が発表、1953年(昭和28年)

実現性のない区間を含む法案に対し、『東京神戸間有料道路計画書』を発表。

・東名名神のルートの原型

・早期建設可能性、経済性を重視

・山岳区間が少なく当時の土木技術や自動車性能に見合っていた

 

道路特定財源臨時措置法成立、1953年(昭和28年)

田中角栄が主導したとされる道路特定財源臨時措置法が成立し、のちの日本列島改造論への具体的財源となる。

 

政治と行政の対立となる東京名古屋、中央道か東海道か論争始まる

対立点の無い名神高速はすぐに動き始め、1956年(昭和31年)ワトキンス調査団名神調査報告、日本道路公団設立となった。

世界銀行ワトキンス調査団は、名神だけでなく、東京名古屋間についても調査しているはずだ

・1956年(昭和31年)発足の日本道路公団は、仮称を『中央道事業公社』とし、公共事業費(税金)とは別に『借入金』でまかなう腹づもりだったようだった(国会資料)

・東京名古屋間の方が貸出資金需要が大きく、こっちがメインになるはずだが公的文書では触れていない。

・ワトキンスによると、中央道案も東海道案も比較できるものではないそれぞれのメリットがあるみたいな書き方だが、世界銀行調査団の立場として、立法府(国会)と行政府(建設省)で対立している内容に踏み込んだ見解は出来ないと言うのが正直なところだろう。

日本道路公団仮称『中央道事業公社』の資金需要のための調査だから、調査依頼された中央道案(静岡井川ルート)がダメで、『中央道案も東海道案も比較できないメリット』と表現し、東海道案なら貸し出すと対案を示されたのが実態ではないか?

名神は2年度回融資(8000万米ドル)、東名は4年度回融資(3億米ドル)を実施している。なお世銀の最終第6次融資1966年(昭和41年)は日本への最後の世銀融資で1億米ドルと過去最大になっているが、それでも同年は資金が足りず、大井松田~御殿場間の難工事区間で契約が遅れ、最後の開通区間となった。

・他の世界銀行案件では単なる『調査団』なのに、名神だけ団長名がだいたい記載され、よっぽど道路族のお気に入りになったのだろうかと思う。

道路公団方式は、法案さえ通してしまえば、あとは自動的にやってもらえる方式を政治家が手に入れたことになる。解体の際、問題点が明らかになった。

道路公団方式は、その後建設機能だけの鉄道建設公団(鉄道運営に責任がない)などでも応用され悪質。新幹線建設一時凍結は、総需要抑制政策の目玉(道路は作り続けた)となったが、鉄道の本質的な問題であるローカル線は建設が国鉄改革開始まで続けられた。

 

名神高速道路着工1957年(昭和32年)全通1965年(昭和40年)
東名高速道路着工1962年(昭和37年)全通1969年(昭和44年)
中央高速道路着工1962年(昭和37年)全通1982年(昭和57年)完成4車線1985年(昭和60年)

名神は法案可決後速やかに施行命令が出ており初めての高速道路建設となり仕様の決定を行いながらの建設

・5年をかけても対立が解けず、東名、中央道同時の施行命令だが、中央道は当初路線計画では需要がないとされ、暫定2車線方式を中心に建設。

・東名は世界銀行からの確実な融資により、順調に建設された。

・中央道の名神に対して17年遅れの開通は、縦貫道の理念が正しくなかったことを意味する。

 

田中精一構想の与えた国家的ダメージ

・正解不正解にかかわらず、地図に直線を入れる政治がもてはやされた時代を作ったこと。これが令和の時代になっても計画完成が国家目標になっている社会主義国家みたいになっており、時代に合わせることを政治が口にしない(オヤジの意思を受け継ぐ)地盤引継型世襲政治の原動力になっている。

・現実のインフラ需要(混雑改善、安全性向上、立体化等速達性向上、よって都市部・都市間連絡・歴史的重要幹線の貧弱性改善)から目を背けてしまったこと。

・不幸なことにオイルショック前1973年(昭和48年)に日本は主要な高速道路網が完成しておらず産業立地に偏りがあった。

・そのため、内陸部との交通を多く必要としない沿岸埋立部にコンビナート型重工業が集積発展。

・昭和50年代は、湾岸部コンビナートの後背地としての大都市近郊しか工業団地の立地が進まなかった。

・景気回復期に過疎が問題になった地方は公共事業頼りの経済になってしまったのではないか?(人口減少が一時的に鈍化)と思うがあまりその辺は研究されていない。

・産業発展の均衡を目指しているとされるが、人口希薄地帯に建設された路線では、産業と交通需要が定着しなかった(中国自動車道沿線とか)

・理想論としての縦断道だけでは、主要な交通を支えられないことが理解され、古来からの街道網・鉄道網に沿った路線を結局建設した

・理想論としての縦断道が先に建設され、産業経済ベルト地帯を無視した建設順位となり、本来発展しうる都市の発展を阻害した

・実現できた縦断道横断道は世界的に見ても希な山岳路線になってしまい、理想論の中にあった高速性が実現できない(曲線、勾配、暫定2車線残置)ほか、建設と維持の高コストと利用が伸びないことによる弊害がめだつことになる

・高速性が実現できない(曲線、勾配、暫定2車線残置)ことがわかり、改良された従来国道との差異が無く、有料道路としてのメリットが少ないことが判明し、なんと新直轄方式と言う無料国道バイパス(高速道路並みとされる2車線自専道)が発案された

・高コスト路線は、低コスト路線に支えられる状況となり、高コスト路線が増えて運営組織として持ちこたえられなかった(道路公団解体)

・そもそもだが、産業立地や可住地、人口構成との相関性が重視されず、国土面積割合による指数的な計画であり、可住地に交通の便利をもたらすことは優先されなかった

・のちの国土構想研究者が政治家に喜ばれる(研究費が付く)はめこみ型(政治的構想に近い理論値を出す関数の発見を得意とする)の理論ばかり発表するようになりました

 

国土の中心に縦貫自動車道の計画、山岳路線特有の問題について研究されていない

・山岳路線特有の問題とは、土木技術としての建設可能性、高速道路運営としてのコスト管理(建設費維持費)、自動車運転が平坦地と比較して労を要する(曲線勾配が多い)点である

 

・建設距離が短絡されるように日本地図上では見えるが、拡大して行けば地形に沿わせたルート(うねうね)になり工費の割に短絡効果が少ない

 ・最高速度に関して、平坦路線は100から120km/hの時代になり、山岳路線が70~80km/hのままなので、自動車交通全般の技術進歩においても、もともと有利不利の差があったが、さらに差がついた

 

図2

 

f:id:utachan0831:20210721014753j:plain

ざっくりまとめてみた表の拡大部分

 

参考文献:中公新書武部健一著、道路の日本史、国土交通省各事務所ウェブサイト

PVアクセスランキング にほんブログ村