<日付:2020/4/23>
私は8歳頃から養父が国鉄職員だったことが影響し、趣味嗜好が鉄道関連に強制されており、その中の趣味としてNゲージ鉄道模型がありました。実の弟が正月の集まりで言っているには、鉄道の趣味を色々やり過ぎだと。(鉄道模型、乗り鉄、撮り鉄、本の収集など)今は当時よりこだわりが少なくなりましたが、鉄道関係での情報収集は止められません。特に意識しなくても書籍やインターネットから情報が集められています。ただそれを同趣味者向けに再発信していないだけです。
関水金属KATOカトーNゲージアーカイブスは、そんな私の子供時代の懐かしさを感じる書籍です。その頃、鉄道少年は鉄道模型なんて買ってもらえる層はかなり限定されており、販売場所も現在の鉄道系模型店と言うのは、東京大阪名古屋くらいしかなく、主な販路はデパートの高級おもちゃコーナーの一角にありました。プラモデル等の模型は、船、クルマ、戦車、鉄道車両を一通り買ってもらってましたが、養母のデパート友の会の商品券消費の一環でしかなく、最終的に養父の好むNゲージに集約されました。
Nゲージを収集していた幼少期7年間が詰まっていました♪
103系通勤電車
最初に買ったNゲージは103系京浜東北線のクモハ103M車、モハ102。親が鉄道に専門外なら2両買うなら、クモハ103とクハ103で運転台付きでM車が1台という構成だと思う。親が鉄道に変に知識を持っているから、103系は2両1ユニットで買うべき、買ってやるのは2両だけとなって、片方に運転台の無い2両となった。だいたい模型なんだからユニット組まなくても動くんだけど。京浜東北線のブルーも私に関連しているわけでも無く、養父の管轄している保線エリアからの選定。
レールは当時Nゲージに進出していたHOゲージメーカーのエンドウ製品。パワーパックは関水金属製品。エンドウ製品のレールはベースが金属で、ビニール被覆で絶縁し2本のレールを載せていた。線路の接続部分が金属製ゆえ、固定レイアウトで無い場合、金属疲労によりジョイント部分が傷み、通電不良が頻発した。また数少ないNゲージ友達とも線路の接続の融通が出来ないためエンドウ製品のレールと関水金属のパワーパックは使用をやめた。エンドウ製品のレールポイントは手動で使い勝手も悪く、エンドウはNゲージから撤退している。
当時の鉄道模型事情としては、HOゲージが一般的であり、豪邸を持つ富豪のおもちゃとしての需要であった。交通博物館などの国鉄系博物館ではエンドウ製品をベースに、レイアウトや車両が構成されており、Nゲージと言えども、鉄道模型と言えばエンドウという雰囲気があったように思う。
Nゲージのコンセプトで畳1枚のスペースから遊べる日本型鉄道模型って聞いたことがある。
次に買ってもらったのが、EF65 500番台車+20系寝台車2両くらい。
当時はブルートレインブームで、先頭に立つEF65 500番台と、当時模型化されていた20系になったようだ。その頃すでに20系は特急運用はあさかぜだけで、急行銀河や新星などに格下げ運用されており、現在と違って、人気車両の模型化は売れ筋を狙って限定されたものだった。模型の金型製作がまだ職人技の時代であったからだろう。
関水金属製のNゲージが優れていたのはその後キハ58系急行型気動車を、トミックスで買って痛感した。再現性がトミックス製はおもちゃ感が強く、塗装も厚塗りした感じが一層あった。動力ユニットも先行した関水金属製品の方が優れており、低速運転でのガクガク感がトミックスではあったのだが、関水金属製品は低重心で安定かつ低速運転で実車みたいにゆっくり加速できた。
その後、DD51ディーゼル機関車と旧型40系客車、機関車で引っ張れる貨物車、201系試作車中央線、最後に買ったのは185系新幹線リレー号だった。
レールに関しては、関水金属製は当初から固定レイアウト向けに製造しており、畳で週末組み立てる子供には向いていなかった。また基準寸法の計算が難しく、導入の難易度を上げていた。ここで友達と接続するために、トミックス製のレールとパワーパックに切り替えた。トミックス製品は寸法に関して実にわかりやすく、だいたい140ミリを基準に考えると良いし、複線間隔は、道床付きレールを3本並べて真ん中の1本を抜くと正規の複線が完成するすっきりとしたものだった。標準でポイントが電動と言うのも後発製品ならではのメリット。
中学までNゲージで遊んでいたが(それしか遊ばせてくれなかったが)、Nゲージばっかりやっていると結局親から取り上げられ高校時代はあんまりいじった記憶が無い。高校時代は谷山浩子さんの音楽趣味ばっかりやっていた感じがする。だいたいストックが段ボール2~3箱あったが、22歳の時に全部友人に譲ってしまい、Nゲージ趣味終了。