<投稿基準日:2021/6/10><購入日:2019/6/2>
急性膵炎入院後、鉄道本の読み直しや購入に熱心になった。購入から2年後、交通史のおさらいで読み直し。感想メモがなかったので、今回書き起こします。
生後から国鉄職員の家へ養子にだされたので、二十歳くらいまではなんらかんらで鉄道漬けの日々。私の鉄道への情報は偏った情報(交通事業者寄り)から始まっているので、国鉄が本当に解体されてから、鉄道と言うものが外部者から見てどうなのか情報を求めてこの本に至る。
著者の老川慶喜氏は経済学の先生で多くの鉄道関連の本がある。鉄道史と言うと、何かと政治との関連史、路線や駅の開業年、改良履歴、車両や技術の発展史に目が行きがち。本書は経済の立場からのアプローチもあり、その後の鉄道経営や組織論を考察する時に良い参考書となる。
<以下あんまり本書とは関係無いことも記述します>
1803年(享和3年)218年前、世界初の馬車鉄道の営業開始には本書では触れず
1830年(文政13年)の蒸気鉄道が本格的鉄道とする。
1846年(弘科3年)日本に文献で情報が伝わったとある。
1853年(嘉永6年)佐賀藩、ロシア軍艦内で模型鉄道の見学。
1954年(嘉永7年)幕府、ペルーからの献上品で模型鉄道を初めて見た。
江戸幕府の鉄道構想
(幕府)アメリカに協力依頼、江戸~京都、生糸と茶の産地を貫通する経路。7
(薩摩藩)ペルギーに協力依頼、京都~大坂
明治政府の鉄道構想
『外国管轄方式』による計画を排除
『自国管轄方式』をイギリスが提案しイギリス援助ですすめることになる
1869年(明治2年)廊議にて『幹線は東京~京都』『枝線は東京~横浜』『琵琶湖~敦賀』『京都~神戸』に建設と決定
・資材輸入のため海外から融資を受けることになったがトラブルが発生
・明治新国家の著名な人物が結構鉄道建設反対派、兵部省(軍部)が反対。
1870年(明治3年)鉄道掛設置、東京~横浜、大阪~神戸着工
1871年(明治4年)井上勝が鉄道頭(てどうのかみ)に就任し建設を進める。
なかなか進まない鉄道建設
・沿岸海運中心の交通網整備となり建設が停滞
・東海道筋は沿岸海運と二重投資になり、中山道筋は産業振興で有利とされた
(高速道路の東名か中央かの議論と似たような展開)
<このあたりから記述者の意見>
中山道幹線の建設が国営鉄道の建設遅れになり私鉄時代となる
・建設難易度の高い中山道筋の建設に追われ、他の路線はおろそかに
・その間に私鉄に建設を許可、建設容易性があり収益性の高い区間の私鉄建設が進む
・私鉄であるが、建設規格を国営に合わせたり、建設資金の補助、開通初期の利益の保証を行い、いずれ国営鉄道に買収されるのを前提にしたかのような路線ばかり
中山道筋と東西京間幹線に決定
東海道本線調査、1870年(明治3年)
(中山道ルート 工期7~8年、工事費1500万円、所要時間19時間)
(東海道ルート 工期4年未満、工事費1000万円以下、所要時間13時間)
すみやかに東海道ルートへ変更決定され着工された
・沿岸海運は貨物輸送、鉄道輸送は旅客中心と言う現在に至る棲み分けが始まる
調査や設計手法の確立されていない時代に着手後建設に難渋し、再調査変更決定までの期間が早いと思う。
東海道ルートの建設難易度の低い区間は、当初から建設費用の回収期間が短く、他の路線への再投資を行うために必要と認識されていたことは、傾聴に値する。
収益化可能路線を政治的な力で抑えこんでしまう事態は、日本の輸送路の骨格を成す新幹線建設、都市鉄道の建設、高速道路建設でも見られたように思う。
1)新幹線(東北上越)では、総需要抑制で建設が遅滞し、後に建設途上未成線放棄や廃止線が多く発生するローカル線の建設が続行された。
2)都市鉄道の建設(主に首都圏の山手線郊外部)が、都市の過密化で需要が逼迫しているにもかかわらず、郊外私鉄路線の経営を悪くするとして、公的セクター(都営、営団)の地下鉄等の延伸が進まなかった。調整に時間がかかり、運営主体が収益の良い都心部から切り離された地域の利害関係者によるセクターになり、いわゆる『高額鉄道』(運賃が高額)となり混雑緩和のためなのに利用が進まなかったり、私鉄で複々線化するべき箇所の対応が遅くなった。細かいところで、国鉄時代中央線は、私鉄(西武、京王)が複々線化すれば三鷹以西複々線化しなくても良いと見ていたフシがあったりと現在まで影響している。
3)高速道路建設では、政治的決定路線が先行し、ネットワーク路線網での収益性が軽んじて優先度が付けられた。都市間輸送の隘路改善より、予定路線を早く建設することにエネルギーが注がれ、収益の良い路線の道路渋滞、収益の悪い路線の交通量の少なさが目立ち、特に大都市圏内道路網が後回し(放射道路網の環状線へ接続が遅れ都市交通への負荷を増大させた)にされた罪は重い。