うたちゃん日記

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道路の日本史、中公新書、武部健一著、古代駅路から高速道路へ(本書で言う道路は地域を結ぶ道筋、街路では無い)

<投稿基準日:2021/6/10><購入日:2019/6/2>

急性膵炎入院後、鉄道本の読み直しや購入に熱心になった。購入から2年後、交通史のおさらいで読み直し。感想メモがなかったので、今回書き起こします。

 

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40年以上前の小学生時代から地図好きの私は交通史の本を読んでいたが、古代については、新たな研究が進んでいたり、現在の高速道路に至っても、社会情勢が変化し見方が変わってきている。また、子供時代には研究というものがその時代の政治背景によって左右され、出版活字化される資料も時代の要請があって出てきたものだと言う判断が出来なかったので、改めて道路史を見返すと新たな発見があった。

 

本書は2015年5月初版、著者の武部健一氏は同月にお亡くなりになっており、武部氏の最後の遺作である。

 

著者の武部氏は、建設省道路公団と高速道路の計画建設にかかわっており、業務にかかわるなか、古代道路網が高速道路建設現場から遺跡として発見されることに端を発して、古代道路について研究をすすめていたそうである。

 

平安時代の七道駅路図を見ると、地域区分と道路名が九州の西海道を除いて概ね一致しており、国府を結んでいたが、今の高速道路網に近似している点が興味深い。距離としても6000km超で、初期の高速道路計画から北海道を除いた距離と概ね一致するようで、日本の国土を統治する上で、基本となる道路の延長と言うものはさほど変わらないとのこと。

細かいルート選定では、伊那谷と木曽谷のルートについて、古代駅路は高速道路とルートの取り方が非常に類似しているそうだ。江戸時代は徒歩移動が中心となり、中山道が木曽谷を通ることが有利だったとのこと。

 

江戸時代は割愛して明治期以降、明治時期は幹線輸送網として鉄道の建設が優先され、法令制度が整備され自動車交通時代の道路整備が始まるのは大正期からとのこと。まだ1919年(大正8年)当時5000台しか自動車がなかった時代なので、日本の自動車用道路整備は遅かったと言う意見が多いが、実用域に達していたのは、鉄道輸送と海上輸送だったから、本書は時の政府が道路整備を重要視していなかったと批判的に書いておられるが、私の考えとは異なっている。

 

現在で言う高速道路、自動車国道が計画されたのは1938年(昭和13年)頃から検討を始め、東京神戸間は調査を始めたが戦争の激化で中止となっている。詳しくは『大東亜共栄圏 全国自動車国道計画』で調べてみれば良いのだが、軍事的要請から出てきた構想、純粋に重要港重要工業地帯を結んでおり、明治期以来『我田引鉄』の伝統から離れて非常に実用的に見える。

 

<ここからブログ執筆者の主観が多く入ります>

戦後の高速道路網計画は、1955年(昭和30年)より国会で法整備が始まり、路線網について、個別の路線について、統一感のない計画推進となった。これは、土木技術や経済性として出来るか出来ないかにかかわらず日本地図に思い描いた計画線を引くタイプの政治家『田中精一』『田中角栄』の台頭が大きい。

その重要性から首都圏~中京圏~関西圏の高速道路の早期実現が待望されたのだが、土木や経済に精通している当時の専門家から見れば、土木工事量を最小限に出来る現在の東名名神のルートが必然であった。経済的にも海外からの融資に頼らなくては建設費をまかなえない敗戦後の状況であり、建設費を確実に償還出来るのは東名名神のルートであった。当時の長距離大量輸送は鉄道や沿岸海運が中心であり、トラックの長距離輸送はトラック自体の進歩を待たねばならぬ時代で、高速道路が出来たとしても、開通まもなくは、トラックが進歩するまで短距離中心になると見られていた時代である。

その中で、中央自動車道は現在計画されている中央リニア新幹線のような南アルプスルートを想定しており、実務者から見れば非常に困難と当初から見られていたが政治的圧力によって、『調布~大月~富士吉田』が東名と同じ時期に着工された。どうみても実務的冷遇(予算は付けるが義理的)は目に見えていて、あまり需要のないと見込まれていた山岳区間は暫定2車線の開通となったり、高速道路に不向きな曲線が多様され、のちのち大改良(まるまる作り替えるぐらいの線形変更)しなくてはいけないこととなった。

もっとも良くない混乱は、首都圏~中京圏のルートが決着せず、名神高速の着工より遅れたことだ。そして、1964年(昭和39年)に中央自動車道のルートは『大月~諏訪~伊那谷』経由に変更された。たった9年の国会審議での遅れだと思われるだろうが、1982年(昭和57年)の中央道全線開通は、1969年(昭和44年)の東名高速全線開通の13年後だ。高度成長期を前にして、政治運動的なものに翻弄され、開通が遅れ、日本全体の成長速度を鈍化させたであろうと思う。しかしながらそのような研究は見当たらず、本書著者も本文に今なら南アルプスルート(赤石山脈)も可能みたいなことをこっそり書いていて残念。

 

中国地方については、山岳部もそれほど難工事区間がないため、中国山地の過疎地を通るルートが先に建設された。これは通過交通には良いかも知れないが、産業集積のある瀬戸内沿岸が高速道路の恩恵(山陽道)が遅れ、山陰地方に至っては未だに細切れ状態で採算性や道路公団改革の余波で路線規格も統一されない事態となっている。中央自動車道計画時の地図にまっすぐ線を引く政治的理念はここでは完成したが、その後の高速道路建設では、政治力で建設順位が決められ、縦貫道(中国道山陽道)は先に完成したが、横断道各線は完成が遅れ、山陰地方衰退の原因となっている。しかも山岳道路で走りにくく(疲れる)時間距離の長い中国道は長距離ドライバーから敬遠される存在になっており、山陽道に対して圧倒的にガラガラらしい

 

<この辺からは指摘事項として>

古代駅路と当初の高速道路計画の距離が近似していて、日本の国土を統治する上で必要な距離は6000km超と記述があるのだが、最終章の方に現在の高速自動車国道網計画が1万1000km超であるとしているが、それでは不足で(相当な距離の過疎地帯を貫くような)新規路線(あるいは低位規格の路線を格上げ)を追加するべきとの記載があって、著者は道路史研究家である以前に道路建設家なんだと思った次第です。