<投稿基準日:2021/8/3><購入日:2019/6/2>
急性膵炎入院後、鉄道本の読み直しや購入に熱心になった。購入から2年後、交通史のおさらいで読み直し。感想メモがなかったので、今回書き起こします。
再読後から2ヶ月以上経っているが、どう思ったか記録するために記します。
<以下あんまり本書とは関係無いことも記述します>
法体系・組織体系に対する時系列
長距離運賃の低減、適切な経路選択(貨物)が可能に
1908年(明治41年) 鉄道院に改組 大陸の満鉄も管轄に
1910年(明治43年) 軽便鉄道法施行 年度末までに50社乱立
地方の小規模事業者が乱立、補助金も通常の営業補償の他、撤退まで含めたプラン。儲かる路線エリアは、私設鉄道が囲い込みをしており、軽便鉄道はあまり利益の出ない路線中心
1922年(大正11年) 改正鉄道敷設法(支線網149線、1万215.5km)
1918年(大正7年)から戦時色の強くなる前の20年くらい、『建主改従』か『改主建従』が政権毎(内閣)によって方針が変わった。
初期の幹線では、工事費用と工事期間の制約で急勾配が多く、輸送力増強のネックになったが、トンネル技術の発展や既存線からの利益で改良費を捻出出来たので、山岳区間の大規模改良が進んだ。(東海道丹那ルート、上越線の完成など)
東京・大阪郊外では、土地を分譲したり沿線を開発して利益を出すタイプの私鉄経営が始まった。
昭和恐慌(1930年(昭和5年))から国鉄、私鉄とも輸送量が減少に転じた
◎1938年(昭和13年)陸上交通事業調整法・国家総動員法・弾丸列車構想
陸上交通事業調整法は、日中戦争が始まった時期の関連する戦時立法と誤解されやすいが、改正され今でも残る法律である。
国営・公営・民営が乱立し経営基盤の弱い民営私鉄の救済的意味合いもある。
地域やブロック毎に経営統合していったが、昭和恐慌前の積極経営で状況が悪くなっていた路線を救済するとして、大私鉄の経営エリアの拡充固定化を狙ったように見え、民間資本側の都合で出来た制度のように思える。
国家総動員法は、鉄道に関して軍事輸送優先の体制とされた。(ダイヤ編成、軍事輸送のための既存線改良)
弾丸列車構想は、大陸経営の進度化を見据えて関釜連絡(トンネル構想)を考え、東京下関に計画された。大陸規格の大断面は採用されたが、標準軌大断面は関釜トンネル構想での大陸直通を見据えての計画であって、狭軌新線(今で言うスーパー特急方式)を採用するものであった。1941年(昭和16年)着工。軍事貨物輸送の逼迫で困っていた時代なので、狭軌としたことも納得がいく。
戦中当時、日本の国力では、植民地を維持できるほど工業力は無く、本土向け資材が大陸に仕向けられ日本本土内の資材不足の状況は恒常的であったっようだ。本土内で輸送逼迫が恒常的に続いているにもかかわらず、鉄道車両鉄道資材は大陸に送り込まれた。
戦争費用の捻出と鉄道予算
戦前は国家予算と比較して『鉄道予算』がかなり肥大していたようだ。
1936年(昭和11年)非軍事国家予算12億円、軍事予算10億円、本土内鉄道予算6億円(推計)
1944年(昭和19年)非軍事国家予算126億円、軍事予算73億円、本土内鉄道予算14億円(推計)
大戦末期の1944年(昭和19年)には、2億5500万円を鉄道公債で集め、軍事費に捻出したり、恐らく軍事輸送のための鉄道改良に5億7500万円を投入しており、かなり無理のある鉄道経営となっていたようだ。