うたちゃん日記

うたちゃんの日記を中心にお散歩していますコメントはお気軽に♪

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関水金属KATOカトーNゲージアーカイブス♪

<日付:2020/4/23>

私は8歳頃から養父が国鉄職員だったことが影響し、趣味嗜好が鉄道関連に強制されており、その中の趣味としてNゲージ鉄道模型がありました。実の弟が正月の集まりで言っているには、鉄道の趣味を色々やり過ぎだと。(鉄道模型乗り鉄撮り鉄、本の収集など)今は当時よりこだわりが少なくなりましたが、鉄道関係での情報収集は止められません。特に意識しなくても書籍やインターネットから情報が集められています。ただそれを同趣味者向けに再発信していないだけです。

 

関水金属KATOカトーNゲージアーカイブスは、そんな私の子供時代の懐かしさを感じる書籍です。その頃、鉄道少年は鉄道模型なんて買ってもらえる層はかなり限定されており、販売場所も現在の鉄道系模型店と言うのは、東京大阪名古屋くらいしかなく、主な販路はデパートの高級おもちゃコーナーの一角にありました。プラモデル等の模型は、船、クルマ、戦車、鉄道車両を一通り買ってもらってましたが、養母のデパート友の会の商品券消費の一環でしかなく、最終的に養父の好むNゲージに集約されました。

 

関水金属KATOカトーNゲージアーカイブス表紙

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Nゲージを収集していた幼少期7年間が詰まっていました♪

 

103系通勤電車

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最初に買ったNゲージ103系京浜東北線のクモハ103M車、モハ102。親が鉄道に専門外なら2両買うなら、クモハ103クハ103で運転台付きでM車が1台という構成だと思う。親が鉄道に変に知識を持っているから、103系は2両1ユニットで買うべき、買ってやるのは2両だけとなって、片方に運転台の無い2両となった。だいたい模型なんだからユニット組まなくても動くんだけど。京浜東北線のブルーも私に関連しているわけでも無く、養父の管轄している保線エリアからの選定。

 

レールは当時Nゲージに進出していたHOゲージメーカーのエンドウ製品。パワーパックは関水金属製品。エンドウ製品のレールはベースが金属で、ビニール被覆で絶縁し2本のレールを載せていた。線路の接続部分が金属製ゆえ、固定レイアウトで無い場合、金属疲労によりジョイント部分が傷み、通電不良が頻発した。また数少ないNゲージ友達とも線路の接続の融通が出来ないためエンドウ製品のレールと関水金属のパワーパックは使用をやめた。エンドウ製品のレールポイントは手動で使い勝手も悪く、エンドウはNゲージから撤退している。

 

当時の鉄道模型事情としては、HOゲージが一般的であり、豪邸を持つ富豪のおもちゃとしての需要であった。交通博物館などの国鉄系博物館ではエンドウ製品をベースに、レイアウトや車両が構成されており、Nゲージと言えども、鉄道模型と言えばエンドウという雰囲気があったように思う。

 

Nゲージのコンセプトで畳1枚のスペースから遊べる日本型鉄道模型って聞いたことがある。

 

EF65直流電気機関車

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次に買ってもらったのが、EF65 500番台車+20系寝台車2両くらい。

 

当時はブルートレインブームで、先頭に立つEF65 500番台と、当時模型化されていた20系になったようだ。その頃すでに20系は特急運用はあさかぜだけで、急行銀河や新星などに格下げ運用されており、現在と違って、人気車両の模型化は売れ筋を狙って限定されたものだった。模型の金型製作がまだ職人技の時代であったからだろう。

 

関水金属製のNゲージが優れていたのはその後キハ58系急行型気動車を、トミックスで買って痛感した。再現性がトミックス製はおもちゃ感が強く、塗装も厚塗りした感じが一層あった。動力ユニットも先行した関水金属製品の方が優れており、低速運転でのガクガク感がトミックスではあったのだが、関水金属製品は低重心で安定かつ低速運転で実車みたいにゆっくり加速できた。

 

その後、DD51ディーゼル機関車と旧型40系客車、機関車で引っ張れる貨物車、201系試作車中央線、最後に買ったのは185系新幹線リレー号だった。

 

レールに関しては、関水金属製は当初から固定レイアウト向けに製造しており、畳で週末組み立てる子供には向いていなかった。また基準寸法の計算が難しく、導入の難易度を上げていた。ここで友達と接続するために、トミックス製のレールとパワーパックに切り替えた。トミックス製品は寸法に関して実にわかりやすく、だいたい140ミリを基準に考えると良いし、複線間隔は、道床付きレールを3本並べて真ん中の1本を抜くと正規の複線が完成するすっきりとしたものだった。標準でポイントが電動と言うのも後発製品ならではのメリット。

 

中学までNゲージで遊んでいたが(それしか遊ばせてくれなかったが)、Nゲージばっかりやっていると結局親から取り上げられ高校時代はあんまりいじった記憶が無い。高校時代は谷山浩子さんの音楽趣味ばっかりやっていた感じがする。だいたいストックが段ボール2~3箱あったが、22歳の時に全部友人に譲ってしまい、Nゲージ趣味終了。

子供時代のストレスによる自傷行為のメモ。+逃亡行為

今週のNHKラジオの朝のニュース番組脱毛について取り上げていました。私の普段何気なくやっている髪の毛を引っ張る行為、子供の時からの癖なのかと思っていましたが、『抜毛症』と言うストレスからくるやつなんだそうです。いつの間にか習慣化しており、完全に無意識でした。これを機会に子供時代に経験したストレスが原因の自傷行為をリストアップしてみます。これで少しでも精神面で安定を得られればと思います。

 

明らかに小学生頃から発生したもの

・毛の関係(引っ張る、抜く、切る、剃る)

・皮膚の関係(肌が赤くなるまでこする、切る、剃る)→治療しました。

・くちびるをかんで血が出るまで皮をむく

・深爪(手のツメをかむ、足のツメを血が出るまで切る)

 

逃亡行為

・金土曜日になると祖母宅に家出的に避難、日曜日に帰ってくる。(小学2年生頃から発生、不登校宿題不提出がなく学校の監視外。深夜に東西線葛西駅から総武線千葉駅まで移動し、アポなしで祖母宅に上がり込む。鍵無しで祖母宅に入る方法を知っていたので祖母宅に入れた。今思うと万が一祖母宅に入れなかったらどうすんのかと思うとぞっとする。養母に連れられて葛西に帰った記憶。)

 

こんな育て方本当の親じゃないから出来るんじゃ無いのと聞いたら、本当の親じゃ無いと返答があった。→養子でした。(小学3か4年生の時)

 

ストレスの原因と思うこと(小学4年まで)

・共稼ぎではないのに養母が遊び歩いていて家にいない。かぎっこ。

・養母にデパートに連れて行かれて、非常識な数の粗品交換をやらされたこと。

・養父による趣味嗜好の制限(鉄道以外の趣味嗜好を絶たれ、結果的に鉄道だけになった)

・家に教科書以外の本が無い。(地図帳ばかり見ていた、時刻表とコロタン文庫の鉄道関係だけ買ってもらえていた。)

・友達に合わせる話題が勉強以外でまったくない状態で育った。

 

ストレスの原因と思うこと(中学3年まで)

・中学は私立の付属校に入れと言われ、深夜まで塾通い。

・進学が目的なハズなのに、落ちこぼれの行く塾に行かされそうになった。(親が自分の学力を全く理解していない。)

・結局近所の公立中学に入った。

・再び、受験勉強で深夜まで塾通い。

・偏差値75超えているのに、なんで勉強しないんだとしょっちゅう怒られていた。(学校と塾の宿題課題は全部こなしていた。)

・トイレ以外勉強部屋に閉じ込められていた。(監禁状態)

・ストレス発散の歌声がうるさいとしょっちゅう怒られていた。

 

ストレスの原因と思うこと(高校3年まで)

・私立大学の附属高校に入ったら学費が高い通学定期が高いと苦言ばかり言われていた。(東邦)

・当時の千葉県内だったら十分自慢の息子だろうと思うのだが自慢しない。公立行かせとけば良かったと言うばかり。

・高校1年生夏休みの時に行った北海道20泊21日が自由すぎて、家に帰ってすごい不自由を感じた。

・私学の学費が高いとか言っており、予備校代とか通信教育代とか出してもらうどころじゃなかった。

・知り合いのところの塾に行ったのは良いが、ほぼ完璧だと思っていた中学の復習から始めてられてしまいこれはダメなんじゃないかなと思いつつ、祖母の大親友なので断るまで時間がかかり、すごい気苦労。

・高校生活を楽しもうとやっていたが、やることなすことに横やりがはいり、高校生活自体やる気を失う。

・ストレスにより胃潰瘍になって入院。病院から通学。卒業が目標になるまで落ちる。

 

逃亡行為

・高校卒業後引きこもりみたいになる。(ほとんど家にはいないお散歩系引きこもり)

・養父が酔っ払いで恥ずかしい行為をしたのがショックで家出、北海道20泊21日再び。

・20歳になったのをきっかけに親子の縁を切る。(養子縁組解消)

息子と遊びたいテレビゲーム買ってあります♪(ファミコンミニ、スーパーファミコンミニ)

<日付:2020/1/21(撮影日)>

大事に押入の天袋に隠してしまっている、ファミコンミニスーパーファミコンミニです♪

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部屋の移動に伴って、未開封未使用のモノが出てきました♪ママにも内緒で(ポイントを貯めてこっそり)買ってあります♪息子が小学生くらいになったら開けるつもりです♪

 

私うたちゃんのパパは、子供時代あんまり子供らしい遊びをさせてもらえなかったので、うたちゃんには色々経験させてあげたいと思っています。私の子供時代は、テレビの制限、本や音楽の嗜好の制限、おもちゃの制限が、理由も無く(父親の気分次第)で厳しく、テレビは親のいない時間の再放送番組、本は漫画関係一切禁止(ドラえもんは子供の教育に良くないと言われた。。。)、ゲームはテレビゲーム関係一切買わない(買ってもらえたのは、オセロぐらい、囲碁将棋チェス麻雀は教養で知っておいた方が良いと子供の私が進言しても聞いてもらえず現在に至る)。子供同士のコミュニケーションにも影響が出ている(仲間はずれやいじめの対象になりやすい)ほどでした。流行っている子供の興味対象から目を背かされ、せいぜい鉄道趣味系の遊びしか許されず(当時普通の子が持っていないような鉄道模型Nゲージ(仮に高価な鉄道模型買わなかったら、流行り物のおもちゃたくさん買えたんじゃ無いのと思う)や鉄道関係の図書しか買ってもらえず、私自身の嗜好と言うより親の嗜好じゃないの?)共通の話題のある友達が極端に少なく、その点について切に子供の私が訴えたにも関わらず無視され(小学生のくせに具体的に進言していた。)今を思えば毒親(毒養親)なんだなと感じています。

 

私の子供時代より、ぜんぜん大甘かと思われますが、人格形成や人間関係の構築のためには、教養としての遊びがより多くあって良いかと私は考えています。ほとんどゲーム関係に縁のなかった私、小学5年生で当時ブームだった最新のゲームウォッチを唯一やっと買ってもらえたおかげで、友達とゲーム機交換というコミュニケーションで仲良くなれました。うたちゃんには、ゲーム目当てであっても、たくさんの友達が遊びに来るようなおうちにしたいと思っています。

子どもの頃住んでいた家が改築工事中でした♪(千葉県千葉市若葉区加曽利町)

<日付:2019/9/1>

平和公園~市営霊園への間に、子どもの頃住んでいた家があります♪

たった2年間しか住んでいませんでしたが、パパが今のうたちゃん頃の年代を過ごし、虫取りとか思い出のいっぱいあったまだ子ども時代が楽しかった頃です。

 

そもそも、養父養母の職場が、神奈川県小田原市であったのにも関わらず建築を強行して、養祖父母と私で住み始めた、ちょっと無理のある家族生活でした。

 

工事中の家

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築46年なので普通は建替の選択だと思いますが。。。。

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新築そっくりさんでした♪

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2階がスカスカなので基礎と心柱だけ使った模擬新築?たぶん、私が今住んでいる家の建替のコスパの方が良いと思います。知っていれば教えてあげたかった。。。

 

養父母とは、ここでは4ヶ月くらいしか同居していないんですよ。しかも職場が遠いから、寝る時間しか家にいない。住み始めてすぐ職場に通うの無理ってことで次の家探しをしていた記憶があります。休みの日は毎日家探し!結局、地下鉄東西線葛西駅近くのマンションに引っ越しました。

お散歩の仕方が変わった♪(子供時代、学生時代、独身時代、現在<家族持ち>)

お散歩の仕方、生活との関係で変わってきました♪

 

<小学生時代>
深夜に祖母に家に家出はしばしばしていました♪(小三くらい)。地下鉄東西線から総武線千葉駅までです。
私のお散歩(乗り鉄)は、家族旅行で京都で母親に置き去りにされたことから始まります♪ひとりで大垣夜行で千葉(家は東京、千葉は祖母の家)まで帰って来ました♪

 

葛西駅から秋葉原駅行きの都バスに良く乗って交通博物館を中心に秋葉原界隈を散策したのを覚えています♪



<中学生時代>
青春18切符を使い始めて、チャレンジ2万キロをなんとなくやっていたことが印象的です♪まだ父親が国鉄職員だったので割引を受けていろいろな所に行きました♪(関東地方の範囲内)



<高校時代>
高校に入ったら、10万円くれると父親の約束で、北海道周遊券20日の旅で、当時の北海道国鉄全線を乗り鉄しました♪(野宿とか出来るようになりました。今は無理です)すきま日程というのを2日間組んで、観光という物にチャレンジしてみました♪札幌と帯広(旭川かも?)です♪隙間時間で函館を観光しています♪
この時は、北海道の長距離列車全ての時刻を暗記していました♪宿のメインは北海道各方面に出ていた、夜行急行列車でした♪
私学の高校授業料が高いだの父親が言い出し始め、プチ引きこもりになっていました♪なんのために高校に行って勉強しているかわからない、部活委員会活動を全否定され、こういうのは、大学推薦で入るためのもんなんだよ(部活部長、委員会委員長)と言ってもわかってもらえず、悲しい高校生活で、体調も胃潰瘍入院となり、親は遊びに行って、病院にも来ず、病院から学校に通い、そもそも、「県内トップ級の進学校で普通の成績なんだから、一般の公立高校在籍だったらトップクラスでしょ」って言っても理解してもらえず、親のバカさ加減を、良く理解した時代です。胃潰瘍のため大学受験できず。。。。

 

<浪人時代>
将来を見失っていた時期です♪都バスの一日乗車券で、勉強しないで一日暇つぶしばかりしていました♪
親が不祥事を起こして、それを言いがかり(きっかっけ)にして、北海道南周遊券20日間の旅に出ました♪不思議な出会いが多かったです♪知らない人でも気さくに話せるように性格が変わってきたのもこの時期だと思います♪養父母との養子縁組を解消して、戸籍上独立しました♪



<専門学校時代>
地図というものをよく考え勉強しました♪アルバイトで生計を立てていたので、他の学生よりちょっとリッチでしたが、お金が根本的にないので、空き時間に自転車で行けるところまで行って帰ってくるようなお散歩をよくしていました♪小平市から一番遠くでつくばまで行った記憶があります♪

 

<最初の方の就職時代>
お金があったので行きたいところに行く、観光もするというスタンス(でも行ったことない乗り鉄が中心という感じ)でした。
最初の転職先は、転職していきなり仕事に忙殺されていたので、出社拒否という手段を使って、ドライブとか、会社帰りにそのまま旅!明日会社行けませんみたいなことを平気でやってました♪代わりの人がいないので、経営者は何もいえません!(無理な後期をちゃんと守って徹夜とかしていたので)よく、そろそろ帰って来ませんか?と経営者から言われました♪その就職先は私が解雇されて数年で会社組織としては無くなりました♪

 

<結婚時代ちょっと前>
お散歩をコンテンツとして仕事になるんじゃないかと本気で考えていた時期です♪とにかく、お散歩しまくりました♪

 

<おデート時代>
お散歩の特技を活かして、おデートコースの組み立てはバッチリだったようです♪

 

<結婚時代:うたちゃん前>
お誕生日プレゼントは一人旅ということになりました♪

 

<結婚時代:うたちゃん後>
やっぱり時間が出来ると一人旅しています♪

養父脳梗塞で、緊急入院。(養父への思い、学生時代編続き)

前編からの続き。

 

小学校時代(亀戸時代、5~6年生)

 

たまたま、マンション大人気時代に、高倍率物件で抽選に当たって入居。駅徒歩5分、割と都心物件。
・葛西のマンションは、ろくに物件探しをせず、2DK。亀戸は、ずっとマンション探しをして、やっと当たった3LDK。
・そのくせ、引っ越した理由を、私の『いじめられっ子』のせいにした。
・葛西にいても、急激なマンション開発地域で、分校で転校だったのでたいして変わらない。
ぜんそくの治療により、体力が平均より良くなる。とくに逃げ足は、いじめられっ子で鍛えられたので、早い。運動会でだいたい1位になるくらい。元々、生まれた時は、兄弟の中で一番でかかったので、本来の体力に戻ったのだろう。ケンカも負けないようになって、手加減しなかったら素手で相手を怪我させた程。
・養父によると、職場に通いやすい、錦糸町場外馬券売場に近いと言っていた。なので、子供を競馬場に連れ回すことはなくなった。

 

小学校生活
・PTA活動をまったくしない親だったので、小林先生にひいきされない対象になった。クラス内で差別的扱いを受けていたと、ずっと思っている。ひいきされないとは、優遇されないともいう。
・養母が神奈川県逗子市の歯医者に通う変わり者だったので、つき合わされた。はみがきの習慣が身についていないので虫歯だらけ。逗子に行く時は、学校休み、歯医者で普通学校休まないだろう。

 

進学活動
・『いじめられっ子』だと決めつけられ、中学はいじめのない大学付属の私学に通うようにと養父が言い出す。この時代、いじめはありませんでした。
・目標とされた付属中学は、だいたい学業で有名な学校じゃなくて、スポーツで有名な学校ばかりでした。
・100点取ってなくて、だいたい80点以上のテストの成績だったが、100点取れない子は、補習塾だと、養母は思ったらしく、補習塾を探して来た。塾の名前を聞いて、この塾は、頭の悪い子が行く塾だから、中学受験するなら、進学塾じゃないとダメだと親に進言したら、場外馬券売場の近くの『東京進学教室』という塾を探して来た。入塾テストで、補習コースと進学コースがあり、なんなく進学コースへ。
・塾では、お菓子、アイスクリームや遊具を販売しており、休み時間、路上でキャッチボールをしたり、買い食い(塾の事務のお姉さんから買う)をしたりして楽しんでいた。運動会もあった。
・3ヶ月くらい通って、塾長先生から、えらくほめられたりした。それは、塾内成績が1番になったからである。100点取れて簡単に塾内成績が1番になるのは、塾のレベルが低いからと、親に進言し、新聞折込チラシで、新規開講した『栄光ゼミナール』に、行くことに。
・小学校であんまり良い思いをしていなく、塾ではかわいがられていたが、冷静に判断した。小学5年生で、このような判断はなかなかできないだろう。
・栄光ゼミナールでの入塾テストでは、普通クラスと特別クラスがあり、ほどなく特別クラスに。特別クラスでは、サービス残業ならぬ、サービス授業があり、普通クラスと同じ学費で、たくさん勉強できた。
・特別クラスでは、四谷大塚準拠テキストなるものを使用。なかなか手ごたえがあった。塾から四谷大塚に入塾するための試験を受けろと言われ1回だけ受けて落ちた。中学受験の頂上クラスの戦いをするためには、小学4年生頃から四谷大塚に入る勉強をしていなければならないことを知り、親のリサーチ能力は、まったくなかったことが証明された。受験代がもったいなかったのか2回目の受験はしなかった。
・その頃の生活は、小学校から帰ると、小学校の宿題はとっとと終わらせ、塾の予習。学習範囲全問回答、質問事項をあらかじめ整理しておく。5時ごろは都営バスで塾へ。ごのはしのいせやで夜食を買って行きます。夜は終バスに合わせて、午後10時ころ授業終了。これを平日毎日、土曜は早めに、日曜は模試。
・ところがそもそもの発端、『いじめ』が、学区内の中学校で無いと親が知ると、中学受験は中止に。でも学力は、これ以上上が無いくらいまで上がりましたよ。これが小学6年生の夏ころです。結局のところ、思った以上に塾代、中学校授業料、高校大学と私学にやらせるのが大変というのが、塾の先生から伝わり、『金を出したくない』養父の方針になったようです。
・なにしろ、3回目の住宅ローンで、家計は私のお年玉を借用するほどだったので、厳しさが伝わりますが、養父のギャンブルタバコサケを節約したり、飲み屋に借金することを辞めること、デパ地下夕食やめて、自炊することは出来なかったみたいです。

 

小学6年生後半で担任の小林先生の態度変わる。
・IQ試験の成績が絶対的に良く、無視できない存在になってしまったらしい。
三者面談で、この子は頭が親御さんの考えている以上に良いから、ちゃんと勉強させるようにと、母親は言われたようです。IQ試験の成績は教えられないとのこと。
・その母親は、担任の小林先生に、新聞のスクラップの課題は、子供の負担が多く、勉強しなくなるから強制しないようにと強く言ったそうです。
・それでも、走り幅跳びクラスや学年1番になったにもかかわらず、大会には出してもらえませんでした。近藤が1番飛んでるのに、なんで出さないだろうと良く話題になりました。

 

この時代の旅行の特記事項
国鉄チャレンジ2万キロキャンペーンに参加を始めました。なんで国鉄家族関係者が対象外にならなかったか疑問を感じます。無料パスとか職員家族割引証を使っていたので。
・それで、家族旅行は、紀伊半島紀勢本線乗りつぶしになりました。寝台特急紀伊』で、紀伊勝浦駅に行く直前になって、養父は仕事が入りキャンセルです。よって母子旅行になりました。紀伊勝浦~串本まで観光バスで移動しているので、完乗していないはずです。京都に宿泊予定でしたが、ホテルは例によって予約していないので、案内所などに問い合わせても満室。ビジネスに泊まるなら草津線に乗りたいと言ったことに腹を立てた、養母は私を置いて、どっかに消えました。京都駅で。携帯もない時代ですから、1人小学5年生の男の子は、泣きべそです。ところが、私の手元にこどもの普通乗車券があるじゃ~ないですか!なんと、京都駅から大垣駅まで移動し、大垣夜行で帰って、千葉の祖母宅に行ってしまいました。私を置いて、養母ははとっとと新幹線で帰ったようです。養母は祖母からかなり怒られたようです。

 

この頃の校外学習、給食休み時のお弁当
・のり弁から、『ごのはしのいせやのおにぎり』『吉野家の牛丼』にバージョンアップしました!手作りじゃないから、さらに手抜きです。もはや戦後では無い!

 

卒業記念旅行は、野田市清水公園です。
・アスレチックコースの池飛び越えコース楽勝で渡りました。体力に自信のない子はみんな迂回コース。親小林先生グループのお子さん方が、ほぼ全滅で池にドボンです。着地と体の動きのバランスを頭で理解すること、それを実行すること、両方出来ないと渡れません。近藤が出来るなら俺だって私だって見たいな子がドボンです。親小林先生グループは、PTA参加に親御さんが熱心で、この日も引率の父兄団に入ってましたから、あの子(私)が、あんなことしたからうちの子も真似してずぶ濡れだわ、みたいに言われたようです。自己責任だと思うけど。

 

この頃の宅内の様子
・3LDKと書いたが、実質2LDKの仕切りをいじった3LDK。それでも人気物件だったんです。
・部屋は、1部屋物置部屋。養父は、それでも家が広くなり、場外馬券売場が近くなったので、ギャンブルにさらにハマった。競馬新聞の山がひどかった。
・応接セットの寸法が、ギリギリで、家の中の通行が不便だった。その狭いところに、温度計が壁にかけてあり、よく体がぶつかった。物理上、体を傾けなければ通れないのだが、なんでわざわざぶつかるんだと養父にしょっちゅうインネンをつけらられたことを覚えている。この人は、本当に国鉄で、線路の点検できているんだろうか?と思ったものだ。養母に線路の修理は出来ても家の修理は出来ないと言われていた。

 

音楽の授業が嫌いになった
・最初のうちは、普通に音楽の授業を受けていたが、成績5段階で2をつけられ、やる気なくす。だいたいちょっと音符が読めるくらい、音楽教室に行っている子や楽器を積極的というか、強引に目立つ楽器やる子が成績良いみたい。
・歌うとコブシがまわりすぎて周りの子と合わない、目立ち過ぎるので、小声で歌ってました。
・同級生には、歌えない子と言う印象が強かったらしく、同窓会で津軽海峡冬景色を歌った時に、すごく歌い込んでいる

養父脳梗塞で緊急入院。(養父への思い、学生時代編)

養父が、脳梗塞のため、言語障害になりました。養父との関係を淡々と綴ます。

 

生まれる2年前頃から、生まれるまで。

 

養祖母にそそのかされて、子供が出来ないなら、親戚からもらって来いと言うことになる。
生みの両親に『せっせと頭を下げて、次の子供をうちに養子にやって欲しい』と、しつこく訪問されたと言っていた。(後日談:物じゃなくて人間なんだから、もらったら返すとか、また欲しいとか、あんたの養父母は、ずいぶん調子良いと、生みの母親に言われた。)

 

昭和44年10月15日、熊谷市で出生。同日養子縁組。
生みの母親は、養父の妹。つまり親戚で、実の兄弟がいとこになる。兄弟は、兄、姉、兄、弟がいる。

 

0才のできごと

 

出生後、熊谷市の実家で過ごす。その後、小田原市国府津国鉄官舎へ。
移動手段は、記録写真によるとなぜか自動車が多いです。みーちゃんに言わせると、高速道路もなかった時代にこんな長距離移動に自動車なんて考えられないそうです。
記録写真によると、千葉の養母の実家にいる時間が多いようです。完全粉ミルクで育った私は、千葉の養母の実家に預けられていたことが多いようです。今、子育てをしての実感ですが、乳児をそのまま、長期間実家に預ける感覚が腑に落ちません。ちなみに養母も養女なのですが、小学校時代に養女になったらしく、養祖父母に乳児を育てた経験は私が初めてです。

 

1才から幼稚園入園まで

 

覚えていること
・小田原での生活、城址公園、保育園、小田原駅前の守谷のパン、バス移動、夜中の自動車移動
・小田原から電車で熊谷、千葉を往復。養母が電車内で忘れたと思っていたカバンを私が持っていて、えらい子だとずっと言ってました。
・事故は、養母が田んぼ道の交差点で一時停止せず、他の自転車と衝突。養母は痛がっていましたが、飛び降り方の上手かった私は無傷。養父が国府津駅売店にタバコを買いに自転車で行って、私を自転車に乗せたままスタンドで立てましたが、道路の端っこが傾斜になっていて私を乗せたまま転倒、私は怪我をしたようです。線路の水平確認を仕事でやってる割には感覚おかしいなと思ってました。パチンコ店にて、養父の隣にいた私に、ゲームに夢中になっていた養父のタバコが私を直撃、やけどしました。
・何かと鉄道に関係ある遊び。絵本は電車の絵本、おもちゃはプラレール、読書は時刻表、新幹線のページを覚えています。時刻表は、現場で余った物を養父がよく持ってかえってきました。
・乗っていた車、カローラハッチバック
・記憶のある電車、153系、165系、73系、101系
・官舎は、大正時代に建てられた平屋建て長屋。
・後述する加曽利の家の建前を見ている。親戚のおじさんによく車に乗せてもらったが、前席左養母の膝の上ドアに手をかけている瞬間に養母がドアを閉めてしまい、手がなくなっちゃう感覚がするほど痛かった。(なんで前席左で膝の上?)
・しょっちゅう、千葉の養母の実家に預けられていたらしいです。

 

幼稚園時代

 

千葉市立桜木小学校入学に備え?加曽利幼稚園に単身赴任?

 

幼稚園入園前に、かねてから購入していた千葉市若葉区加曽利の土地に三世代住宅の家を建て、先立って養祖父母が先に入居。幼稚園入園と同時に私も養父母の元を離れ入居。完全に育児放棄です。

 

加曽利の家は、国道126号東金街道と、国道51号佐倉街道の真ん中のちょうどいちばんバス停から遠い場所にあり、うちのお墓のある桜木霊園も徒歩圏、お墓参りに便利で、網戸を閉め忘れると昆虫が家に入ってきてしまうのどかな場所です。

 

・養父は、国府津、鴨宮、小田原、熱海、来宮あたりを転勤してました。新幹線建設、東海道貨物別線、来宮改良東海道伊東線分離工事が自慢の仕事と家では話してました。幼稚園児に自慢する養父も変ですけど。他に話す人いなかったのかな?
・養祖父母が推奨する『寒風摩擦』で、アトピー性皮膚炎と言う、一生苦労する病気持ちになりました。
・親から離れて生活していたので、いわゆるママ友経由の友達は全くいません。
・幼稚園の運動会の思い出は、親子競争で、一等を必ず取ると豪語した父に『引きずりまわされた』こと。引きずられ靴が脱げ、観客席の他の親御さんから『かわいそう』と言われたこと。結果ビリ。
・養父が自慢のカローラで来なくなった。本人は、免許の書き換え忘れていたので免許がなくなったと言っているが、私が免許を取る年齢になり、ちょっとの期間忘れていても面倒な手続きで免許は復活するから、重い違反をおかして、免停になったと想像される。ちなみに家は車庫付き。

 

小学校時代(加曽利・1年生前半)

 

・養父母が加曽利に引っ越ししてきた。
・桜木小学校に入学した。
・転居して、すぐに、家が寒いとか、設計上の不備をぐちり始める。注文住宅です。
・養父母と同居し、親の部屋で寝るようになると、『ぜんそく』が顕著になった。部屋のアレルギー物質が原因。部屋の寒暖差による結露によるカビ、ダニ、ホコリ、たばこの煙が良くないらしく、部屋でのタバコを養父が我慢できなかったらしく、養祖父母の部屋で寝ることに。
・養父母は、加曽利に引っ越しまもなく、東京方面に家探しを始めた。養父は通勤に新橋まで片道2時間、養母は通勤に小田原まで片道3時間半。西船周辺のオンボロ古民家とかを見に行った記憶がある。国府津の官舎より手入れされていない住宅で、よっぽど切羽詰まった家探しだなと子供心に思った。後述する、葛西の小さな売れ残ったようなマンションになる。駅徒歩5分。
・ほどなく『アレルギー性小児ぜんそく』が、悪化し入院治療することになり、桜木小学校には、ほとんど通っていない。ぜんそく治療は、小学6年生まで続き、千葉大学病院退院後、高頻度で通院治療、注射のみ近所の病院と言うことになった。

 

小学校時代(葛西1年生後半~4年生)

 

葛西駅徒歩5分に所在する、2DKの分譲の家族向けマンションとしてはミニマムな家に引っ越し。10月と言う中途半端な時期です。無抽選で買えたみたいですけど、資金的には、加曽利の家が売れないとか、祖父母の戻る実家の古民家を賃貸から戻したりと、綱渡り状態だったようです。行き当たりばったり。

 

・私は小児ぜんそくの治療のため、千葉通いと言うから皮肉。学校は休み。
・週末の楽しみは、土曜日の午後のデパート。養母は、デパート友の会に狂っており、名義をいくつも作って偽名で加入する。粗品引換券の入ったご案内が目当て。これを、葛西の家と千葉の実家で行っていて、10口くらい入っていたようだ。景品引換要員として借り出されるのだ。親子で行くと引換券作業が短時間で終わり効率的だと言う。でも、2回目くらいで、こんなのやだーと私が言うので、階段の踊り場で粗品を持ってずっと待っているのだ。嫌がると、養母は遠慮なく怒り散らすので困ってしまう。養母の買物中の待ち時間は、おもちゃ売り場。買ってくれないおもちゃでえいえんと遊ぶ。この頃は、デパートは日曜定休日と言うのんきな時代だった。
・他の行楽は、交通博物館通い。国鉄家族票を見せると無料で入れるのだった。本当は、中にある弘済会の施設に入るために無料なんだけど、弘済会にちょっと顔を出して、後は遊んで来いと言うのだ。ケチ。
・旅行も、基本国鉄職員家族向けの無料パスの発行期間を利用する。神戸有馬温泉に行った時も、交通科学館に行って、国鉄家族丸出し。広島に行った時も、行きはあさかぜ、宿泊施設は利用せず、その日の新幹線で帰ると言う、無料パスを利用するための旅行と言っても過言でない。原爆資料館と宮島は行ったけど。旅行に対するケチぶりは、犯罪行為に近いことまでやらせられる。親が本屋でガイドブックを買って来て、宿泊先や観光地をメモに取り、子供である私に返品に行かせる。子供心にこんなことまでやらせるのか?と痛く傷ついた。あるいは図書館と言うものを知らないのか?
・小学校3年生で、親があまりに横暴な口ぶりなので、『本当の親じゃないから、そんなふうなんじゃないの』と問い詰めたら、あっさり白状した。本当の親じゃないと。
・小学校でいじめにあい、おでこを数針縫う大怪我をした。養父はケンカは負けたら家に入れないとか、わけわからんことを言っている。ぜんそくで体が弱いのに、やけに抵抗してくるからいじめる方も面白いに違いない。でも、こっちは家に入れてくれないから必死なのに。。。。
・級友との話題は、勉強以外なし。普通の親が、子供にやっていたことを全然してないから。テレビは基本禁止、親のいないあいだにこっそり見るもの。ドラえもん禁止。流行っていた、スーパーカー消しゴム禁止、メンコ買ってくれない、なぜか鉄道シールだけ少し買ってくれる。勉強はゴールデンウイーク頃には1年分教科書読み終わっていたので、できた方だと思います。でも、教えられないからと親への質問禁止。養母は元小学校の代用教員ですけど。スーパーカー消しゴムは、売れ残りを親戚の文具店のおばさんが大量にくれました。(ブーム後)
・養父いわく、俺はガキ大将だったと。同じように生きろと言われても、体が弱いので無理です。生家の兄弟が、アトピーぜんそくもないその違いは、育った環境だと今でも思ってます。
・校外学習や給食休みの時の弁当は、父親でも母親でも、米飯に海苔とかつお節のしょうゆ漬けの『のり弁』おかずなし。あえて言うと、これなら自分でも作れる。家庭科で習った料理を養母に教えたら喜んでいた。よっぽど料理できないんだなと内心思った。夕飯は、デパ地下ばかりだったので。
・楽器とくにうちにあるオルガンを習いたい、将来は音楽関係の仕事やりたいと言ったら思い切り無視された。ちびっこのど自慢で2位取った時は吉祥寺東急百貨店まで連れて行ってくれたが、課題曲津軽海峡冬景色に対応する練習音源がまったくなくテレビの耳コピ。レコードとかカセットとかは、はるかな夢。カラオケなんてありません。
・土日の行楽は、ギャンブル、中央競馬では、中央部分に子供の遊ぶスペースがあり放し飼い。そこでその日限りの似た境遇のお友達と良く遊んだ。だいたい東京への引っ越し理由は通勤対策だが、ギャンブルに近いと言うのもメリットがあったようだ。中山、府中、大井、船橋、銀座の場外は競馬、小田原、千葉は競輪、オートとか競艇にも行った。級友の中でこんなに連れまわされている者はいない。銀座の場外近くの有線放送する喫茶店で、頭に異常なたんこぶが見つかり痛みを感じたので、銀座の病院で血を抜いてもらった。注射器2本分くらい。どっかでぶつけたか問われたが、殴られる蹴られるが当たり前の荒れた小学校生活だから、いつのことか思い出せない。窮状を訴えても、ケンカ勝って来いだから話にならない。ある時は、御岳渓谷に連れて行ってくれると言うからどこかと思ったら府中競馬場だった。真っ暗な御岳駅で、予約なしで、宿を見つける神経がわからない。翌朝吊り橋を渡ったのが観光だったらしい。
・夏休みは、小学校のプール教室が終わると、熊谷の実家に長期滞在。これも今思うと子育て放棄のような気がする。親は、子のいない生活を楽しんでいたようだからだ。
・よく、千葉の祖母の家に行った。土日一人で行くことが多かった。家出同然で、深夜に行くことも多く、この頃から養父母とうまくいかないことが多かった。

 

小学4年生のプチ部活
・鉄道部があったので入部、4年生は上級生より活動時間内容が限定されていた。時刻表の索引ページの路線図の書き写し。大きな紙に全駅は書けないので、起点終点分岐点を書いて壁に貼ったような気がする。
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