うたちゃん日記

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偏差値75なんてたいしたことない♪(養父の口癖)

本日3本目の愚痴記事です♪iPad miniの使いにくいキーボードがやけに軽く入力出来るのです♪

 

『偏差値75なんてたいしたことない、なんで1位になれないんだ!なんでもっと勉強しないんだ!遊んでばっかりだ!』と言い放し、机に飾ってあったオハ43(関水金属製Nゲージ)を、たたき壊す養父でした。

 

上文だけで養父の教育に対する無知は十分ですが、大学教育に対する偏見は恐ろしいものでした。『東大じゃ無ければ中卒で十分だ。ダメで東工大。』だそうです。東北大地学部か都立大地理学科志望と中学時代から宣言していたので、『なんだその大学は!』レベルにしか養父は思ってなかったと思います。ちなみに養父は中卒で国鉄に入り、『出世頭』だと豪語しておりました。『中曽根さんの国鉄分割民営化案は、俺の考えを参考にした』と妄言も良く口にしました。(当時から現在まで30年以上の自慢話、まわりから見ると頭おかしいだけ)

 

数少ない理系の高校を目指したのも、大学進学のことを考えてです。東邦大学付属東邦高等学校は、当時千葉県内で有数の進学校で、私は、大学進学の目標に一歩近づいたと内心喜んでいたのですが、養父母の考え方は、全く違いました。学費の高い私学であることを責めました。部活や委員会活動に熱心であったことも気に食わなかったようで、学生は勉強だけしてれば良いと、成り行きでいけば、部長や委員長などのちょっと経歴でハクのつく役職は辞めさせられました。成績は1番で無ければダメと言う養父ですから平均点以下だと『高校退学しろ!』『城東(近所の都立高で受ければ余裕で受かったところ)で上等だ!』くらいなことは毎日のように言われてまして、そのストレスで、高校3年の時に胃潰瘍になってしまい、卒業出来るか出来ないかレベルまで出席日数や成績が落ちてしまいました。卒業出来たのは、わざわざ遠くから面倒を見に来てくれた養祖母と入院した病院から学校に通わせてくれた病院長のおかげです。病院に入院中も養父母は、訳の分からぬ夫婦喧嘩をして子供のことはほったらかしです。養父母は要するに気分屋なんです。その頃は、子供は食わしてやる存在とも平気で口にしていました。

 

部活や委員会活動を頑張っていたのも、もし文転したらジャーナリズムも良いかなと思っての事です。写真部と新聞委員会、新聞委員会は実質私が仕切っていたのを養母が無理矢理辞めさせたので、後輩が育たずさらに大変です。後輩が書いた文章をほぼ構成を残して家でこっそり書き換えです。進学校だからと言って文章力があるとは限らないのです。後にコピペで有名になった後輩が出ました。(おぼかたちゃん)同期の友人に作家がいて、いくつも出版しているのでそのうち有名になるかも。

 

それでも高校は卒業しただ生きるだけの日を3年続け、測量専門学校で地図の勉強をしました。専門学校の費用は学費は、実母方の祖母から、生活費はアルバイトと3年間の貯金からです。住まいは2万円の風呂なしアパート、日は当たらずカビとの戦い、内緒で防湿工事をやって暮らしていました。アルバイトは朝3時に起きて朝刊の新聞配達と集金。夏休みは夕刊も配りました。時給が良かったので、バイトしていない学生よりお金持ちだったかもしれません。学校の備品とか不足すると私が買ってました。

 

養父母とも高校卒業後、アルバイトでとりあえず経済的に自立したのをきっかけに縁を切り、産まれ親の子に戻りました。しかし、後継ぎ問題や遺産問題で、産まれた家や養祖母の依頼で、再び養子になります。結果的に氏を3回変えたヘンテコな戸籍になってしまいました。

 

あれだけ学費が無いと言っていた養父母ですが、学資保険はしっかり入っていて、離縁後、海外旅行の費用として使ったらしいです。

 



話を小学校まで戻します。

 

小学校の時、成績が良くない、出来たら大学の付属中学に進学させたいと、養父母が言って来ました。私は産まれた家では、5人兄弟で、上の兄や姉がもの凄く頭が良いと言うのが気になり出したようです。実の両親に頼みこんで養子を取った経緯から行くと、何にも教育しないのはまずいと思ったようです。

 

5年生の時、養母が塾を探して来ました。いわゆる落ちこぼれ学業不振者の行く補習塾です。小学生の私でも進学目的で行く塾が補習塾、これはどう考えてもおかしいです。すぐ断りました。続いて探して来たのが『進学教室』と名の付く塾、補習クラスから進学クラスまで揃っています。ここに入りました。入塾テストで進学クラスに入りました。私自身、補習は必要ないと考えていたので当然です。教育のことを理解していない親元で育つと親に子供のレベルを理解させるのが大変だと今になって思います。妻は勉強嫌いで補習が必要なのに進学塾に入れさせられ面白くなくて塾に行かなかったそうです。進学教室では、数ヶ月で塾の成績がトップになり、勉強する内容に物足りなさを感じるようになりました。

 

ここで『ゼミナール』と名の付く有名進学塾の新聞チラシが入りました。小学生には進学クラスしかなく、普通のクラスと特別クラスがあります。入塾テストで特別クラスに振り分けられ塾を移りました。特別クラスは、授業料は普通のクラスと同じで、無料の特訓授業があります。夕方の5時から夜の11時くらいまで授業がありだいたい終バスでの帰宅です。塾での正味5時間の授業のために家で予習しなくてはいけません。寝る前の時間、小学校から帰宅して塾までの時間ほぼ全てが勉強時間でした。土日は模試とか予習復習で遊んでいる暇はありません。塾からの大きな課題がありました。四谷大塚受験です。塾に行って塾の受験勉強というのも変に感じるかもしれませんが、当時の超進学校への進学では四谷大塚さえ受かってしまえば、志望校も受かったも同然と言う雰囲気がありました。そのために事情を知っている親御さんは、小学校3~4年生から塾へ入るための受験勉強を始めさせるのです。小学校5年生で始めるのは遅すぎと言うのが、ゼミナールに入ってからの感想です。小学校6年生で中学受験は辞めました。入れても結局名ばかり付属中学で大学は試験があったり、行きたくない学部になってしまうことがわかったからです。四谷大塚に合格していれば、超進学校へ入っていたかも(駒場東邦とか、同じ東邦大学付属でもレベルが上)知れませんが。

 

もうひとつ塾を辞めた理由は塾代の高さ、中学高校と私学に通わせる時の学費の高さをようやく養父母が理解してきたこともあります。勝手に私立付属中学に入れることを考え、また辞めることにする。大事な子供時代を自由に過ごせなかった悔しさが残ります。

 



中学は地元の第三亀戸中学校に通います。公立なのに進学校として有名で越境者が3分の1を占めています。校内の模擬試験を受けても、偏差値が5くらい全体成績より校内の方が低く出ます。

 

中学1年生の時は塾にも通わずのんびり過ごします。これが教育を知らない親に育った不幸です。都立高校は当時、内申半分テスト半分で入試が行われ、中学1~2年生の時の校内成績が重要になるのです。したがって、大抵の親御さんは、中学1年生、英語に至っては小学校6年生から始めるのが得策と心得ています。中学1年生は中の上から上の下くらいの成績で推移します。中途半端に中学2年生から例のゼミナールに通い始めます。しかしながら、特別クラスには入れてもらえず、普通の進学クラスで中学3年生まで勉強します。それでも、小学校で塾に行っていた当時と変わらないくらいの勉強量をこなします。自由なのは寝る時間くらいです。ほかの塾生たちは結果的に同じ勉強量をこなせないわけで、中学3年生夏休み頃には成績がクラスでトップクラス、特別クラスの塾生より上くらいまでになる訳です。内申点が無く不利なため、私立高に目標が行くのは当然の成り行きです。

 

中学3年生での成績は、どうかと言うと、学年7クラス300人以上在籍の中、5~9位、クラスには、学年1位の生徒がいたのでクラス万年2位。偏差値はだいたい75くらいで安定していました。前述の通り、越境者が多く成績上位者はほとんど越境者。地元は同じクラスの1位の子と2名だったので、実質学区内2位な訳です。(この時1位の友人はJR東日本に就職しています。)

 

ここで表題の言葉を養父からあびせられたのです。

 

その頃は、実の姉が東大に合格し、特待生で無料進学出来、自転車で通学出来る東京女子大に進学した時期でした。

 

当時は、そんな親の言動にかまっていられないほど勉強していたので気にしていませんでしたが、東邦大東邦高等学校に合格進学してから、同じように不信感の募る言動に滅入ってしまいました。進学校で上位の成績を取るのは容易ではありません。平均点取って入れば学外を含めればかなり上位の成績で、良い大学に進学出来ます。養父の言動、さらに養母も養父に追い打ちをかける言動で、気力も体力も健康さえも奪われてしまいました。本当に悔やまれる高校生活を送りました。

 



当時大学進学を目指していた分野は、測量分野で言う所のリモートセンシングなどの先端分野になります。とてもニッチな分野で、そこで教育を受けていれば、現在最先端の研究なりビジネスが出来たことを考えると人生憂鬱になります。今は最貧困の職業分野です。測量の分野では伊能忠敬が老後、最先端の分野を極めことを知っています。残されたわずかな人生で私は何を残せるか考えました。産まれてくるおちびちゃんに限られた資産ながらも最善のことを施してやる、このことにかけようと思ってます。

 

養父は、俺の老後のこと見てくれるの?と問いてきます。歩いて行ける所に引っ越して来ただけでもありがたいと思って欲しいのですけど、人間若い時の性格が急に変わる訳でもありません。養父は、数年前に硬膜外血腫にかかった時、救急の人に脳外科に行くべきだと進言した私にしばらくは、息子は命の恩人だと言ってました。命の恩人もすぐ忘れてしまうほど、養父は痴呆が進みつつあります。なんとも複雑な家庭事情を愚痴りました。
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